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2005.05.18

てくり

約束通りかわからないが、KCのカフェに二日連続で行く。行く前に、auショップ(はやく機種変したいです。)、中央文具へ。文房具屋には、ノートとボールペンを仕入れに。無印から無地のノートが姿を消してしまった。段ボール色の表紙に、オレンジの帯でかわいくて、自由にいろんなことを書き込める無地が気に入っていたのだが、売れなかったのだろうか。考えると、無地ノートって、小学校の頃の自由帳と何ら変わらない。あんまり、大人のニーズというのはないのかな。グリッドにだまされるな!と思いつつ、中央文具でノートを探していると、オリジナル商品ということで、かわいらしいA5版の無地ノートが!何でも、オリジナル商品らしい。これはぁと思い、2冊買い込む。あのノート、続けてください。リクエストとしては、装丁と言いますか、表紙がもう少し固い方が良いです。カバンに入れたときに、折れ曲がらないように。

KCから、「てくり」という雑誌を見せられる。よく知っている人たちが出ているよ、と言われてみると納得。丸山安曇、中條菜穂、石川恵、大関さん、piana…。おーい、みんなというぐらいに、知っている名前がちらほら。何でも、フリーランスで動いているライターやカメラマンが集まって作った雑誌らしい。雰囲気的には、クーネルな感じでしょうか。盛岡市内のさわや書店、東山堂などで扱っている。自分は、早速帰りに、さわや書店で入手。480円です。

発行記念イベントということで、6/26に、南昌荘にてパネルディスカッションを行うらしい。そこには、KCに、盛岡絶賛系の沢野さんが登壇するらしい。

世の中において、物とストーリーの関係とは大切だと思う。コンテキストの中に、自分がいて、そして物がある。そう感じることが大切なんだと思う。そこに、自分の存在意義やその物の存在の素晴らしさを感じることができる。それは、同時に、あらゆる「もの」たちの事象においても言える。

高度経済成長とかバブルとかって、ブラックボックスをいっぱいつくって、それを良しとしようとしてきた。つまり、物とストーリーが乖離していく。それは同時に、人とストーリーの乖離も招く。これは、誰が作ったということよりも、そこに物が存在するということに重しが置かれて、それを使っている自分も軽んじられていく。よって、消費者を軽視した産業がはびこる。それは、産業だけではなく、街づくりとか、国づくりとかにおいてもだ思う。

もっと、世の中は複雑なコンテキストの中にある。ストーリーの輻輳によって紡ぎ出された集合体。捉えられないぐらいの様々なストーリーがあるはずで、一言では片づけられない、多様性があるはず。だから、ブラックボックス一つでは、本当は「世界」を語れないはず。

今、自分たちに求められているのは、ストーリーを感じたり、把握することなのではないかと思う。でも、それは過去だけではない。竹村先生曰く、「来し方・行く末」。どこから来て、そしてどこへ行くのか。

最近、「解析」という言葉が気になっている。先人の仕事を読み取り、それを元に、さらなる発展を生み出す。人類が様々な生命の中においても、得意とする行為である。そして、その物が、どうこれから歩んでいくべきかを考える。これも、デザインなのだと思う。簡単なところで言えば、この製品が捨てられるときは、どのように捨てられるべきか。今、そういうことも求められている。

物にストーリーが無くなっていくと、その物としての存在が薄くなって言うと思う、と上で書いたのだけども、それは逆のことを言いたいことで、物のストーリーがわかってくると、他人事には思えないというか、少なくとも、その他大勢とは思えなくなってくるはず。そこから、「ブラックボックス」との別れが待っているはず。

何となく、「てくり」という雑誌を読みながら、いろんな人のストーリーを感じて、あっ、きっとこれが受け入られれば、盛岡という街のブラックボックスはきっと取り除かれていって、いろんなメロディーが鳴る街になるのではないかと思う。

まぁ、こんなことを思いつつ書き留めつつ、自分が正直に思うところは、自分が盛岡でそのメロディを奏でられないことが悔しいということだろうか。でも、KCがサイフォンで入れてくれた珈琲と照れながら出してくれたガトーショコラを食べ、七尾旅人を聞きつつ思った。この街を作品にしようじゃないか。流行り言葉で言えば、ユビキタスな作品をこの街に作ろうじゃないかって。かっこいいじゃないか、アルスに行って、街が作品ですって、初めて言う出品者って。

わけわからない。

そう、わけわからないことを言うのが、僕の一つの仕事であり。

そのわけを君に教えることが、もう一つの仕事である。