期待、観客のことを思う。
自分の作品がどこまで作り込まれているか。最近、そう言うことを意識させようと己を突っついている。結局の所、そこにはクリエイタとしての歯がゆさがいつもあるからだ。実験的なプロジェクトだから、スピード感が求められているから。そんなのが、クオリティダウンの言い訳にはならん。とりあえず、動けばいいや。そういうのは、正直言って、クリエイタとして非常にストレスに感じる。そういうのが散り積もってくると、なんとも爆発したくなる心境になってくる。
自分が手がける作品は、製品的な何か一定のレベルを超えたものとして存在しなければならないと思う。「製品」というと語弊があるが、使う人がもっている期待に応えられる品質を持っていなければならないと思うのだ。製品とは、お金を払って買うものであり、それ相応の期待を持って、購入した人は製品に触れようとする。その期待を見事に裏切られると幻滅し、憤りを感じる。しかし、その期待に応えつつ、良い意味で期待を裏切るようなハイ・パフォーマンスがそこにあると、人は大小があれども感動を覚える。
何か、人をキュンとさせるような作品。それを自分は作りたい。ショートフィルムにしても、インタラクティブ作品にしても、それは変わらない。人の心を揺り動かすこと。それが命題なのだと思う。
と、同時に自分は、作者が意図としない表現が無造作に置かれている作品は嫌う。例え、それが無造作な表現であっても、それは無造作ヘアーのように作者が意図としたものでなければならないと思うのだ。そして、それが作者は想定しなかったのだろうなと感じ取られるようではあってはいけない。間違いなく、作者はそう言うことを考えて、こうしたのだろうと思わせるような構成でなければならないと思うのだ。構成と書いたが、それは、もし、観客が見ている部分は作者が想定しなかった点であっても、他の点において意図的に作り込まれていて、おそらくここも作者がきちんと作り込んだのだろうと思わさせるぐらい、全体を通して出来上がっていなければならないのだと思う。それが、構成と書いた、思うところ。
ここ半年間、いろんなことをしてきて、自分がどれぐらいの時間を作品に割けるかが感覚的にわかってきた。もっと、自分が生み出すものを作り込んでいかなければ。自分がしなければならない仕事は、インスタントに量産することではない。観客一人一人のために届けるものを作らなければならない。そう、観客の顔をイメージしながら。