映画構造論とかを綴ろうとは思わないけど、映画の根幹に関わるところには、さまざまなアプローチが実は潜んでいるのだなと、最近、そんなことを考えているんです。
映画は、ラブレターであり、遺書である。実は、そんなことをいつも考えています。おそらく、人からいろんなものを奪って、残るものって、死と愛かなと思う。つまり、必ず訪れる死と、そして誰かを愛しく思うこと。死というのは極限の状態であり、愛という理由無き感情。
そういうものをコアにして、実は世界ができているんじゃないかなって思う。そういう構造を、実は映画というのも承けている。
最近、作家の人と話していると、そういうコアの部分を書ける人というのは、なんとも自分とは違う神経系統を持っている方なんだなと思うときがある。自分は、次回作では演出に徹しようと思っているので、客観的にそういう人のことを見たりしているのだが、感心されることが多い。
死とか愛はどこにでも転がっているもの。隣の誰かが死んで、それを見つめている自分は、その死にいく人を愛していなくても、まぶしい笑顔のあの子のことを愛しく思っているわけで。こんな事を書いていると、ナーバスになっているとか、ネガティブになっているのかと思われるかもしれないが、そうじゃなくて、非常にポジティブな感じで、日常におけるドラマを考えているんです。
ここまで述べた事柄を伝える映像って、どういうものなのか。実は、それが難解なのです。そこには、あまりにも自由があって、何かに縛られているのです。