自分が、盛岡でインディーズ映像作家として駆け出しの頃にお世話になった方とメールのやりとりをする。その当時の自分を思い出しながら、今はそのころ自分が思い描いていた自分とはずれているけども、なんともおもしろいやつになっているなと思った。その一方で、自分がやりたいことを再認識して、そのための布石を打たなければと、いろいろある毎日だが自分にはっぱをかける。
本日、軽やかになりました。
佐世保の事件。いろいろ事実関係が明るみになってきましたね。今回の事件で思ったのが、学校におけるインターネット教育の在り方、そして表現の矛先の変化です。
今回の一件で、学校におけるインターネット教育がだいぶ変わっていくのではないかと思います。これまで、インターネットを活用するスキルがないとまずいということで、そこまでかもしれないですけど、盲目的にインターネットを教えていたところもあるのかなと感じるところもあります。つまり、インターネットはコミュニケーションツールなのだよ、それは現実社会と密接に関係あるものなのだと言うことを抽象的なところを教えないで、ただWEBを見るとか、メールを読み書きするということだけを教えてきたのではないかと言うことです。廊下で先生やお客様にあったら、会釈をする「こんにちわ」と挨拶をする。そういう挨拶をはじめとする対人コミュニケーションの中に、インターネットでの通信があると言うことを教えずに、切り離して教えてきてしまったのではないかと思うんです。でも、これは、自分が受けている印象であって、実際の教育現場ではもっと先進的な取り組みがされているのかもしれませんので、現実を捉えていない発言かもしれないです。
もう一つが、表現の矛先の変化。ここ最近の少年犯罪でショックだった事件に、彼氏と一家を惨殺しようとした少女の事件がありました。その後の裁判の過程をあまりニュースで見かけないのですが、あの事件も衝撃的でした。あの事件の特徴は、少女が自分のWEBサイトを持っていて、そこで自分を表現しつつ、最終的には犯行声明らしきものを発表するに至ったと言うことでしょう。今回も、犯人の女の子は、自分のWEBサイトで詩や文章を公開していたみたいです。
WEBサイトなどという公でいて、かつ閉塞的な表現の場が無かった頃、少年少女たちはどんな方法を持って自分を表現してきたのだろうかと考えると、まぁ、とても外向的な形としては絵、詩、作文、音楽、または暴力などで表現されてきたのでしょう。内向的な場合は、日記なのでしょうか。暴力の場合でも、公の場である学校、公園などで出てくる場合もあるし、家庭内で出るというケースもありますし。聞いて驚いたのが、意外と学校ではあまり目立たなく読書少年少女で頭の良い子が家に帰ると母親に対して暴力をふるっているというケースもあるらしいのです。
で、何を言いたいかと言いますと、現在の未成年者がWEBサイト上で行っているネガティブなまたは、敢えてネガティブを演じている表現というのが、ポストインターネットが登場するまでは、一体どういう風に社会に現れていたのかと言うことを捉えないと、実は今起きているWEBサイトでの表現というのを理解できないのではないかと思うんです。ただ単純に、インターネットは顔が見えないから、なんでもやれてしまうという短絡的なことと捉えないで、表現の矛先、または表現の露出の仕方の変化というのを捉えないといけないと思うんです。何がどう移っていたのかという視点ですね。
と、同時にその表現に対しての他者からの反応の変化が、どのように表現者に対して変化をもたらすかということも考えていく必要があると思うんです。前に、加藤の乱というのがありましたよね。あれは、加藤氏がインターネットでのあるコミュニティからの反応を世論、政局の流れと同じであると見誤って取った行動だとも言われているのですが、特定の人たち、またはコミュニティからの反応が、表現者の自信を確固たるものにして、表現活動を増幅させる、展開させると言うことがあると思うんです。これは、悪いことではなくて、ファンからの反応がアーティストの励みになっていると言うことと基本的には変わらないことです。
ただ、あまり良い方向に向かっていない精神の表れの表現活動を発展させる可能性もあるわけです。
己の表現に対する反応を得やすくなった環境が、自分を客観的に捉える能力を持っていない未成年者にどんな作用を与えるのか、これもまた一考する必要がある問題だと思うんです。
インターネットは表現の自由化をもたらしてとも言われていますが。表現したいと思う魂はいつも拘束されているもの。自由というのは幻想でしかない、または蜃気楼みたいなものではないかと思います。