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2004.02.20

3月のイベントのテーマが「Timeline」なわけで、個人的にも「とき」について思いを巡らせています。

他人が、それまでを何をやっていたか、というより今という時点まで、どんな行動をとってたどり着いたかって、細かいところまでは知りたいと思いませんよね。朝起きて、顔洗って、ご飯食べて、どっかに立ち寄ってから会社に来たとか、会社の後は誰かと挨拶を交わして、駅までは歩いて、その後飲み屋に行ってとか云々とかって。はっきり言ってうざい。いや、そう言う細かいことはどうでも良いことなのかもしれません。ストーカーじゃないんだから。

が、その人が、突然死んだりすると、死の直前までの行動というのが、何か重要なものになってくる気がするんです。重みがますというか。突然無くなった友人のお父さんが、その友人が死ぬまでの一日を調べて、こうだったらしいんですよと、語るんですね。恐らく、友人が死ぬまでの行動を知って、そうして死んだのかというのを知ると言うことで、臨終の瞬間に立ち会うまで行かないけど、一緒にいることができたというような感覚を覚えることで、救いを得ることができるのかなと思ったりするのです。

つまり、「とき」とは、時報によって常に打たれている客観的なものではなくて、とても主観的なものなのではないかと思うのです。ときとは、意味合いを個々が付け加えていくものではないかと。

「とき」とは過去になった瞬間に固有のものとなる。共有が許させるの一瞬だけである。

だから、歴史解釈って、本当にまちまちなんですね。そして、一瞬を求めるためにみんなライヴというのを求める。もしかしたら、そこでしか、複数人の人が本当は何かを共有できないのかもしれません。いや、何かと言うより、肉体的な体験を共有できるのは瞬間なのかもしれません。精神的な思考ですとか、知識というのは、時空を越えられると思うのですが、生理的衝動、肉体的な活動、抑えられない感情など。だから、スポーツものの録画中継って、なんだか、嫌なんですよね。もう、それは終わっていることで、ただ僕らはその結果を知らされていないだけという意識がどこかにあるから、興奮という共有ができづらい。