コロナ渦の影響で、VR、AR、3Dワールドなどが注目されており、仕事でもVR案件が入ってきている。個人的には、現在のVRにとても惹かれているわけでは無いが、避けてはいられない。

というわけで、とあるミュージシャンのヴァーチャルライブを観る。確かに、楽しめる。全体的に、画質も作りも甘い。しかしながら、それを前提に、演出され、許容できるようなつくりになっている。つまり、本当ならこういう感じの映像なのかなと、頭の中で勝手にシミュレーションしながら、つまり、頭の中で勝手に、目の前に低解像度の映像を高解像度の映像に補完しながら見ているわけだ。これは、「画質」だけの話では無い。その場における臨場感、触感なども、我々は脳内変換・補完しながら、体験している。まるで、エトスを仰ぐかのように。

今のVRをあまり好まないのは、とにかく画質と表現が低いからだ。これで、人間の知覚感覚を奪えるのかと、思わざるを得ない。しかしながら、人は、それを超えてでも、そこにある知覚体験を求めようとしている。低解像度の体験を自らの中で増幅させ、そして補完し、高解像の、豊かな体験として成り立たせようとしている。

不思議なものだ。ロゴス(言語・理論)で作り込まれたヴァーチャル空間を楽しむために、我々は内なるピュシスに問い合わせているのだ。

人間の感覚器官、知覚器官は優秀だ。「補完」ができるのだ。

人に直に会わずに、会議ができるzoomなどは、便利だ。しかしながら、直に会うのと比べて、かなり低い画質・音質のぼやけたお互いの顔を見合いながら、話をする。既に、会ったことがある人ならば、そのときの印象を頼りに、相手のクリアな姿を想像し表情を読み取るが、まだ実際に会ったことがない人が相手だと、それは想像の向こうの存在になる。

ふと、我々の脳は疲れていないだろうか、と思う。コロナ渦の前には、使っていなかった程の「補完」作業をし続けているからだ。この脳の補完作業は、恒常的に続くのだろうか。