今日は、悪い意味での記念日が樹立。いかがなものか、自分と問いつつ。

なんとなく、同じようなスキルセットを持った人たちのクリエイティブに対しての盛り上がり方と、自分の立ち位置が違うなぁと思うことがたまにあり、何でだろうと、ザラッとした違和感を持っていた。

何かの書き込みで、「ハレの演出」みたいなのを見かけて、腑に落ちる。なるほど、自分が求めているのは、ハレの演出では無くて、「ケ」の演出だと。ここで言うハレとケとは、例のハレとケである。

「ハレ」の演出というと、何か大きなライブ映像やVJなどなど、非日常的な空間の演出である。「ケ」の…は、家の中だとか、日常の、日々の空間でのデザインのことだ。

そう考えると、ここ最近、世の中の建築とかいうのも、本当に「ハレ」のものである。渋谷に続々と出来上がる建造物は、そのほとんどがエンターテイメント性を強くし、それはまるでテーマパークとも言える。そのギラギラと林立する姿を望むと、なんとも食傷気味になってくるのだ。

自分が初志一貫としているのは、「ケ」におけるデザインだったりするのだろうかと、ふと思った。

と言っても、「ハレ」をつくるのも考えるのも、それはそれで好きだ。「ハレ」と「ケ」の間の揺り戻しというのも、それは、やはり生活と同じく、大切なので。

良いインプットが多い数日だった。

金曜日は、私淑の内田繁先生の三回忌に、先生を偲ぶトークイベントへ。久しぶりに、内田デザイン研究所の方にもご挨拶ができて良かった。改めて、内田先生のデザイン思想の深さと先見さに改めて学ぶ。これは、きちんと消化せねば。先生がご存命の時に、いろいろ聞くべきだったと後悔しきりであるが、あの当時の自分には、そんな質問をする頭も無かっただろうなと、ここ数年の自分の悩み事の答えの一端を見出したような気がする。精進せねば。

土曜日は、田所さんの作品とArs Electronicaの作品を見に、松戸へ。会場は、旧徳川家松戸戸定邸という幕末の建物。古い邸宅に展示されるメディアアート、現代アート、プロダクトは、新しい視点で見れておもしろい。

実は、自分も考えていた複数のRaspberyPiの自律性を問うた作品。田所さんに、先にやられてしまったと思いつつ、各端末が自律しながら演奏するサウンドは、心地よかった。

日曜日は、皆川明さんと田根剛さんのトークイベントへ。好きな2人の対談だったので、とても楽しみにしていた。当たらないだろうと思っていた抽選に当たってしまったので、これは聴きに行かなければと。

一貫して皆川さんが話していたのが、物から生まれる感情、想像(イメージ)を大切にすること。ミナのデザインは、作り手の感情を物に託し、それを着る人それぞれが、その感情を覚醒させていくことではないかと。

最近、考えていたデザインプロダクトのもう一つの膜(レイヤー)についてのとても、示唆に富んだお話だった。

もしかしたら、物を所有するということの重要性は、本当に下がっているのかもしれない。

娘が、お片付けが悪いとか、もらったものを大事にしない、物を大事にしないとと叱られているのを聞きながら、果たして、彼女は本当にモノを大事にしていないのか?と疑問に思った。

「物」理的なものへの執着は無いかもしれないが、「モノ」には執着があるのかもしれない。物理的な物を所有することへの意識が低くても、機能性を満たす「モノ」には執着があるのではないか。「物」と「モノ」は共存すべきものであったが、そこには乖離が生まれていて、「モノ」の方に重きが置かれ始めているのではないかと。

例えば、写真。デジカメ、スマフォが登場するまで、写真は、フィルム、印画紙(プリント)がある上で、そこに視覚メディアとしての「情報」が存在して、共存していた。しかしながら、スマフォやPCという、印画紙を代替するような再生機が登場することによって、撮影の時点で、物理メディアと情報は乖離するものになった。細かく言えば、デジカメ時代において、気に入った写真を印刷するという行為は、情報として、つまりデータとして生成された「モノ」は、後から「物」を付け加えて、人為的に「後乗せ」で共存させるものになった。

断捨離のこんまりが、プレゼントは捨てても良い。なぜなら、プレゼントは渡された時点で、思いを伝えるという役割を果たしている。と話していたのを思い出した。人からもらったものを中々処分できずにたまっていく相談者に対して、罪悪感を持たせずに断捨離させる良いアドバイスである。

「物」はすでに、メディア(媒体)化しているのかもしれない。思いを乗せる、機能を実現するものになっているのではないか。

そういう時代、感覚の中に生まれ育つ子供たちは、物の所有感がどんどん薄れているのかもしれない。このことは、廃棄物による環境破壊への対策も考慮に入れて、我々人類が考えるべきことなのではないかと。

物を大事に末永く所有する方向性と機能を手に入れると割り切ってシェアする、サブスク的に物を持つという二方向に、我々はシフトしていくのではないかと。

長女を外苑前の自転車教室に連れて行く。自転車の乗り方など、「教室」などに連れて行かなくても、親が教えれば良いじゃ無いかという話になるのだが、実際、親が教えようとすると、なぜできない!?と熱が入り、怒鳴り、叱り、子どもは転んで痛くて泣いているのか、ただ怒られて悲しいのか、もう分からずに…。ということになるらしく、それならば、自転車教室に預けて覚えた方が、子どもも下手に叱られることも無く、素直に覚えられるのだという。

結論から言うと、2時間ぐらいで、長女は自転車に乗れるようになってしまった。本当に、驚いた。本人には悪いが、今日は、まず乗れないだろうから、来週も来るかなぁと構えていたのだが。

ここで、教わる、教えるということの学びを得たような気がする。

河川敷で、泣きじゃくる子どもを自転車に乗せて、親が自転車の後ろを支えながら、走り、バランスを取らせ漕がせる。段々、バランスを取れるようになったら、転んでも、なんとか自転車に乗り続けさせて、ある瞬間バランスが取れて、1人で乗れるようになる。そして、ぱぁーと後光が差す。というのが、日本式スパルタ自転車習得法だ。

外苑前の自転車教室では、まず、ペダルを外した自転車にまたがり、足で地面を蹴りながら進むところから始める。ここで、体でバランス感覚を身につける。転びそうになったら、直ぐに足が付けるので、子どもは恐くはない。できるだけ、スピードを付けて前に進めるようにし、目線も下に落とさず、上(前)に向けるようにする。ここで、バランス感覚を身に付けると、ようやくペダルを付けて、漕ぐ練習になる。最初、漕ぐときは、自分が加えた足の加重による重心の変化に対応できないのだが、一度、感覚として覚えたバランスの取り方が生きてくるのだろうか、自分でバランスを取れるようになるようだ。

この間、子どもたちは、初老の講師たち(聞く限りでは、自転車メーカーをリタイヤした方々)に罵声を浴びさせられることも無く、必要なときにアドバイスをもらうだけで、自律的に学んでいく。特に、悪ふざけをする子どももおらず、子どもたちは、ひたすら自転車と、そして自分に向かい合う。

ここで考えさせられたのは、ゴールに向かうための過程をきちんと細かいタスクに分けられるかということだ。自転車教室では、最初に、バランスを見つけると言うことで、補助輪などを使わずに、ペダルがない自転車で身に付けさせる。そして、バランスを崩したときに、ギリギリのところで足を付けるという行為を身に付けさせ、体幹的に体でのバランス調整能力を身に付けさせる。次に、ペダリングによる重心移動の調整を習得させるという段階を経ているのだ。

そして、重要なのは、自律性の中で学習させると言うことである。これは、教える側の目標達成の仕方を考える必要がある。教える側が、子どもに、何かを覚えさせると言うことに執着し過ぎて、もしくは、そこに自己達成を求め達成されないことの焦りを感じたり、できない他人への理解が無いと、それがもどかしさにつながり、感情的になってしまうのではないだろうか。おそらく、感情的な教育、特に怒りの感情による教育は、ことさら子どもに対して良い効果は無いことが多いはず。教えると言うことの最大のゴールは、教えを受ける側が目標達成することにある。教える側の目標達成ではない。教えを受ける側の目標達成に向けての最善のルートは何か、そのことを最大限に考えると、どう取り組むべきか見えてくるのではないだろうか。

子どもが自律的に模索しながら学ぶ中で、壁にぶつかったときに、適宜に教えていく。それも、過剰では無く。その繰り返しが、良い学びの循環を生むのではないだろうか。

と、書くのは易しである。実際のは、そうも行かず、日々、子を荒げてしまうのだが。

あぁ、そうか、だから「教室」があるんですね。