本日のお友達。

この間観た「20世紀少年」のヤン坊マー坊みたいだ。

上野に行ったので、藝大カフェに行ってみる。

このあたりは、古い建築と新しい建築が混在しているのがおもしろい。

ロダンですね。はい。

そのあと、石見銀山で入って、とても良かった群言堂の上野桜木にある東京支店へ。

ビルの地下一階にあるのだが、古い建物の建材を移築してきた造りになっていて雰囲気が良い。サンクンコートみたいになっている空間に、真ん中に緑を植えたテーブルがあったのだが、それがなかなか美しい。なんだか、ナウシカテーブル。

期間限定で、企画ショップを別な場所でやっていると言うことで、そこにも足を運んでみる。

古民家を改装したギャラリーみたいなところだった。小さな中庭もある二階建ての建物。このあたりは、こういった建物が多く残っている。赤ちゃん服が良かったな。だるまロゴがかわいい。

と、ほっつき歩いている様ですが、デザインソースは集めてきましたよ。あれですね、にぎやかなところも良いですが、こういうところを妄想しながら歩く方が楽しい。

ミステリー映画祭を引き継ぎ、盛岡で催されている映画祭「もりおか映画祭」。今年の映画祭では、後輩の香菜子の作品が上映されることになったらしい。

IBC NEWS » もりおか映画祭 17本上映[19:28]

また映画祭では二戸市出身で、新進気鋭の十文字香菜子監督らが、自らの監督作品「やたの鏡」の上映後、トークショーを開き、映画作りの面白さなどをアピールします。「もりおか映画祭」は今月24日から3日間で、当日券より3割ほど安い前売券は、今日から発売されています。

自分の作品を故郷に持ち帰るって、どんな気分なんだろう。素晴らしい。ということで、みなさまぜひ足を運んでください。

それにしても、映画祭のポスターのグラフィックは、怖い…。

見た目は重要じゃないと言うが、「一目」は肝心だったりする。

雑貨屋に入ったのだが、全く器に惹かれない。なぜだろうと思ったら、それは質感だった。とにかく、自分が好まない質感が並んでいた。だから、手に取るまでもなく、気に入ることは無かった。

茂木さんのクオリアじゃないが、何か脳が、感覚が、視覚が、質感を捉えるというのがあるのだろう。

ナビゲートDVD「20世紀少年」秘密大図鑑 上巻映画の「20世紀少年」は、原作マンガのファン向けの映画だなと思う。映画としての昇華が無い。

この映画だけが悪いと言うことだけではないのかもしれないが、映像そして映画の可能性に挑むと言うことの難しさと、それに挑む素晴らしい作品との出会いは感動的だ。

カフェに入って、空いた時間にごにょごにょと仕事をしていたら、となりの席の人たちが何だか大きな声で打ち合わせをしている。ふと、聞き慣れた人の名前が入って来る。そうこうすると、そのほかにも顔が浮かぶ名前や団体名がポンポン出てきて、内情や企画内容が耳に入って来る。

「耳に入っちゃったんですよねー」というように、いろんな話題が入ってきては、頭の中でリンクされていく。

どうやら、どこかに企画相談会議にいく前の、内輪の下打ち合わせのようだ。でも、漏洩。

自分も、たまにカフェなどで打ち合わせをすることがあるのだが、気をつけなければと思った次第で。

最近、製品やサービスに関わるデザインをしているので、NDAを結ぶことが前提だったり、CONFIDENTIALと記した書類を広げていることが多いので、カフェで打ち合わせと言うのがめっきり減っている。しかしながら、油断は禁物と思う次第で。

昔は、今日は体育の日だった。

「たいく」と入れると体躯となる。

新しいMacBook。

招集が掛かってチーム岩手みたいなメンバーで打ち合わせる。不思議な感覚。とはいえ、話し合っている内容はスケールアップ。

先日、地球大学クリエイティブで廣村 正彰さんのお話を聞く。廣村さんの作品は、直接的な表現ではなく、サインと人の間にエアーポケットの様な一息ついて考えさせてくれる「余白」を持っている。そのエアーポケットがあるから、人は頭を動かし思考する。その小さな思考が、サインが言わんとしている事柄の本質をより理解させる助けになっている。単に、一目で見てわかるということだけではないのだ。一瞬、わかった、と思うのと、事柄を理解してもらうのでは違うのだから。

クリティカルで、かつ迅速さを求められるサインやインタフェースならば、こういったエアーポケットは無駄なのだろうが、多くのサインやインタフェースには必要なのではないだろうか。いや、むしろ、自分が必要だなと思い、潜在的に求め始めていたのかもしれない。

白といっても、このことを的確に表現する言葉を持ち合わせていないと思っていたのだが、原さんの本に、まさしくの言葉があったので。


発想は空白に宿る

空白を資源とすることで、様々なコミュニケーションや創造的な意思の疎通ができることについて述べてきた。空白がそこに存在することで、それを補間しようと頭脳が運動する。そこにコミュニケーションや思考が発生するのである。さらに言えば、「考える」あるいは、発想するという脳の営みそのものも、「思う」という能動性によってゼロから構築的に作られるのではなく、「問い」に無意識に反応することで成立するのではないかと僕は考えている。「我思う」の前に、目に見えない「問い」を置く。問いとは脳の中に何らかの拍子に生まれる空白である。

原研哉「白」p.62より

あれは、エアーポケットではなく、「問い」だったのだなと、また気付かされた。だから、脳がくくっと動き出すのだろう。

この空白を作り出すインタフェース、コミュニケーションをいかに作り出すか。実に、興味深いデザイン課題である。

そう言えば、引用したこの原さんの文章の下りに、なぜか椀子そばが登場する。椀子そばをこう捉えるとは!その着眼力に敬服する。

テレビを観ていたら、インターネットやオンラインショッピングとは関係ない番組で、画面下に検索キーワードがテロップで出て、「検索」と出ていた。番組内のネタをより理解するには、インターネットでググれってねというメッセージなのだろう。これはテレビのインターネットに対する自虐ネタなのか、それともダブルウィンドウ(テレビとパソコンを同時に使っている意)な人たちへの演出なのか、驚きつつも困惑してしまった。

テレビというのは、一方的に流れるメディアではあるが、その一方的に流れる利点として、情報アクセスへのきっかけを絶えず入れ込んで流せるという強味を未だに持っている。そこから、枝分かれするようにインターネットへの情報アクセスが始まっていくという可能性。

問題は、そのきっかけの埋め込みが、おそらくどんどん商業的な匂いが強くなっていくことなのだろうか。広告 =  情報 + お金とは言わないが、このあたりのさじ加減が難しい。

「歴史」とは一通りのことではなくて、様々な解釈や経験が付いた「史実」を物語るものである。「史実」は一通りで、何年何月何月に、何が起きたと言うことの端的な事実でしかない。しかし、それを体験した、または又聞きした人が、それらについて自分の主観的な、恣意的なものを付け加えることで歴史的な解釈が生まれ、国家、学術的な統一見解と言うのはあるかもしれないが、幾多もの「歴史」が存在する。

テレビ放映と言うのは、単なる一つの流れであるが、YouTubeやニコ動にアップされることで、様々な人のコメントが付き、いくつものあり方を持つことができ、情報が付加されることで、情報としての厚みが生まれる。

ご存知の通り、人は「史実」より「歴史」を好む。

そういうコンテンツづくりが求められているのかもしれない。

ようやく一息を付けそうだ。

昨夜は久しぶりに徹夜。

とはいえ、来週からまた新たなミッションが始まるので、一息も束の間まですが。

いろいろと最近思うことは多いのですが、それを綴る時間を取るリズムを失ってしまったようで。いけませんな。

ラズロさんの話を聞きながら、知性とはこういうことを言うんだと、初めての感触を得た。

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