自分の日々は過酷なのか、ノートPCが1年ごとに壊れる。確か、昨年もこの時期に壊れた。調子が悪くだましだまし使っていたが、とうとうHDDのエラーがBIOSより表示されるようになり修理のピックアップ。来週には帰って来るらしいが、生活のリズムが崩れる。

先月だっただろうか、みんなでPCの電源を切ろうというイベントが世界規模であったようだが、自分は滑稽だなと思っていた。自分の知的活動においてPCとインターネットは切り離せないものであり、どこでもPCとインターネットを使うことは、何か労働に追われている様なイメージをもたれる方には閉口する。知的労働の在り方、社会・文明のコミットの変化を捉えることが大切だと思う。

自分の知的活動をサポートするPC。堅牢性と自分との親和性。もっと、上がっていってくれないだろうか。ケータイも優れてはいるが、さすがに作品制作はできないし。

MSから、新しいインタフェース「Surface」が発表された。自分がこのところ、取り組んでいるテーブルトップインタフェースものだ。アプリケーションとしての汎用性、筐体のデザイン性を考えると、これまで発表されている物の中でピカ一ではないだろうか。その完成度に、正直、ショックだった。しかし、考えてみれば自分の仕事の価値は、こういった技術的なプラットフォーム作りのところには無く、その応用に重要性がある。そう考えると、こういった基本的なプラットフォームが出来上がると、これまでよりもひとつ上での表現ができるようになるわけで、これは歓迎すべきこと。驚くべきことに価格は、1万ドル。他の製品と比べて安い。当分は業務用らしいが、日本でも手に入らないだろうか。

ヴィジョナリストを目指そう。

年金に期待するよりも、301kか株か。

隅田川テラスを浅草まで歩いてみる。今まで見たことがない光景に出会ったりと、やみつきになりそうだ。少々、住人のみなさんが恐いが。

来週の予定を…と考えたら、もう6月である。あっという間に、今年も半年が過ぎてしまった。7,8月は、また作品制作の山場を迎えるので、6月は勉強の月としなければ。いや、時間的な余裕ができるからということではなく、切実な問題として、もっと学ばなければならないことが多いと感じている。

自分にとっての専門分野が何であるかと考えれば考えるほど、専門分野を深化しなければならないし、広い視野を持たなければならない。となれば、もっと触れなければならないことが多い。人と話す度に、自分の真価とは何か、自分が貢献できることは何かと考える。そして、自分に足りないところが次々と見えてくる。

最近、自分でもいうのは気恥ずかしいが、デザイン狂になってきているのだと思う。正直に申して、これに危機感は感じていない。何か狂うぐらいで、人生で成し遂げたいのだ。それぐらいの人でなければ、面白くないではないか。

自分自身が、環境に包含されている有機体であるということを認めなければならない。

森下の駅前からバスに乗って、お台場で催されているノマディック美術館の展示を見てきた。六本木ヒルズで行われていたプレ展示でその世界観に魅了され、前売り券を購入していたのだ。

とてもあり得ないような人間と動物の対話の姿を写した写真と映像。六本木では、写真が主役だったが、お台場でのノマディック美術館では、間違いなく映像が主役だった。この展示のために設計され、作品と旅する移動型ノマディック美術館の建築性と相まって、神殿の中にいるような感覚。動物と人間という、創世記的なミニマル感のある世界に浸ることができる体験だった。

ビデオアートというのは、どうにも苦手だ。何をやっているのか意味の分からないパフォーマンス、粗いDV映像、下手な編集、耳障りなサウンドなどなど、「プロ」ではないアーティストが作るビデオアートほど、ひどいものは無い。それも、終わりも告げられず、画面の前で傍観しなければならない。

しかしながら、この展示の映像は違う。スローモーション映像の美しさと通常ではあり得ないような動物と人間が同居した映像。どこを切り取っても、美しい。クジラの群れの映像などは圧巻である。これぐらいのクオリティのビデオアートは大歓迎だ。解説には、ビデオアートではなく、「映画」「俳句」と表記されているが。

写真や映像を見ながら、こんなに、動物と人間は仲良くして良いものだったのだろうかと、考えた。動物は動物、人間は人間と、分けなければならないというのは、それは文明的な発想なのかもしれない。人間だって、動物じゃないか。自分と環境を分けて考えてしまうことと同じで、動物と自分たち人間も、もっと近い隣人として考えるべきなのだろう。「動物愛護運動」とかを問うているわけではない。当たり前の感覚として。

cendre

このアルバムを聴く度に、表層の2層化ということをいつも考える。教授のピアノが近いところで奏でられ、シーケンサから送り出される音が奥行き感を持って流れ、手前に聞こえるピアノとは違う時空間をつくり出す。しかしながら、この空間を異にするように思える二つのパートは密接な関係性を保持しながら、それぞれの時系列を刻んでいく。

グラフィック要素というのは、制作過程でいくつかのレイヤー(層)をもってつくられたとしても、出力された時点で視覚として一つの層でしかない。つまり、一つの表層である。また、表現を明確にするために、デザイナはその主題が、マクロとミクロというレンジの間のどこに存在しているかを見つめ続け、位置取りを図る。すると、そこには良い意味で一元的な存在が生まれる。

しかしながら、世の中の事象というのは、マクロとミクロの間の様々な現象が絡み合って、生まれるものであって、近景・中景・遠景を見据えた捉え方をしなければ、ものごとの本質、かたちを見出すことはできないのかもしれない。

二に限定する必要性はないが、そういう意味において、表現としての表層では、多層であることが求められるのだろう。意味性において、「多」様性であることは然るべきことかもしれないが、表層においても、多層であることは重要なのではないかと思えてやまない。

身近なセンスウェアとしての表れと、そのセンスが捉えた現象を生み出した大きな流れを表現すること。それが、使い手にとってインタラクティブな要素であると言うこと。これらが、うまくかたちを成したときに、とても刺激的な表れが生まれるのだろう。

FLEETの1st、期待しちゃう。

FLEET 1st mini album、「pre view」2007年6/20リリース決定! ex.スーパーカーのいしわたり淳治が作詞、日本最高峰のポストロックバンドtoeから柏倉隆がドラムで参加する等、多彩なゲストを迎えた意欲作。 ミックスはメンバーの佐藤純一が自ら手掛けているほか、フリッパーズギターからコーネリアスやくるりなどを手掛けるこちらも日本最高のエンジニア高山徹氏、日暮愛葉のバンド「LOVES.」からエンジニア/ギタリストの岩谷啓士郎も参加。そして、マスタリングには坂本龍一からナンバーガールまで数多くの音源を手掛ける日本を代表するマスタリングエンジニア、小泉由香を起用するなど、サウンド面においても全曲捨て曲なしのバラエティーに富んだ仕上がりです。

DTS

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DTS…。

自宅にあるコンボアンプにiPodを繋げたいと長い間思っていたのだが、アンプにはなぜか外部入力が角形光入力しかなく、iPodはアナログ出力しか持たないため繋げられず我慢し続けたいた。ところが、光出力が付いているdockを見つけたので、「これだ!」だと思って仕様とにらめっこして購入したら、繋げてもスピーカーからはノイズが出るだけ。マニュアルを隅から隅まで読んでみたら、このdockの光出力は、dts形式だとか。光出力に、コーデックの種類があるなんて初めて知った。自分の持っている機材が対応しているのは、リニアPCM。最近の5.1ch対応のアンプなどには、dtsというDVD等で使われるコーデックが乗っているのだとか。途方に暮れてしまった。と言っても、部屋の中でちゃんと音楽を聴きたいので、中古で小型のアンプでも買おうと思う。

音が無いからイヤだとかで、どうも、テレビが流れていることがあるのだが、どうも、テレビの音というのは、自分の脳に合わないことが多い。第一に、家のしつけの問題があって、ながらテレビは悪というしつけを受けていると、嫌悪感を思うことがある。もちろん、ラジオや音楽を聞きながらの勉強は推奨されていたわけではなく、ながらはながらなのですが。不思議なものだ、大人になってから、頭の中に親の声らしきものが流れてくるような感覚があるんだから。

短い期間だったが、テレビの制作現場でお手伝いをしていてわかったのが、テレビの音というのは、なんとも過激で刺激的につくられていると言うこと。如何に単純で、人の興味を引くような音にするかと言うところに修練されているサウンドデザインである。よって、脳みそがそれに引きづられていくと言うことは自然なことである。

そんなことはない、テレビが流れていたって集中できるじゃないかという人もいると思うのだが、これは自分からすると、強い刺激物を強制的にシャットダウンしている状態を長時間に渡って作っているわけで、これは不自然なのだと思う。人間の免疫構造で言うとアレルギー状態なのではないかと思う。

自分の場合、考えるべきことや作業の内容によって、エレクトロニカを中心に曲を変え、または好みのインターネットラジオの音を薄く掛けている。これが、良い活性化を生み出していることが多い。まぁ、これも自分の勝手な言い分なのかもしれないが。

このところ、アンビエントなサウンドスケープを、サウンドデザインを、というような話をすることが多いのだが、結局のところ、日常の音場をどう捉えているかが重要なのだと思う。音の解像度は、脳の解像度につながっているような気がする。人の神経網を拡張するようなサウンドスケープを日常において、どう存在させるか。難問ではある。

と言っても、自分は無印の段ボールスピーカーが好きだったりするのだけども。

今夜は徹夜で考えごと。良いアイディアが着想しない。

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今日は徹底してMTG.日程。

ミーティングをしながら、この2年間、自分が手に入れた術の一つが実現力なのだと思った。

浅草の三社祭に行く。朝の4時ぐらいから境内で並んで、ド迫力の宮出しを見る。先々週は、神田祭。何だか、祭りづいているなぁ。東京は、いや江戸な地域は、お祭りでできている街なのかもしれない。

晩ご飯を久しぶりに、気合いを入れてつくる。昨日安かったクレソンを大フューチャー。

週末、流体力学の簡単なシミュレーションに触手。できたのは良いのだが、はやり精度に難があり。きちんと勉強すべきか…。AS3にも挑戦しなければならない。AS3は3Dまわりがオープンソースで整備されつつある。気になってしょうがない。

今年のアート&テクノロジー東北で、未来派図画工作の鹿野さんが招待プレゼンを行う。東北を拠点にする数少ない、世界が注目するインタラクション系のデザイナーの一人である鹿野さん。まだ間に合う方はぜひ、会場へ。

アート&テクノロジー東北

主催: 岩手大学,アート&テクノロジー研究会
日時: 2007年5月19日(土)13:00~
会場: アイーナ(いわて県民情報交流センター)「ギャラリーアイーナ展示室」

# 招待プレゼン: (16:00より開催します.)
「アートとテクノロジーの重なり」 鹿野 護 氏 (ワウ株式会社)

本日、代休。

東京国立博物館へ「レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の実像」 展を観に行ってくる。「受胎告知」が目玉の展示。

と言っても、「受胎告知」を間近で見られるのは1分少々。平日ではあったが、絵の前に行列ができており、立ち止まってゆっくりとみることは許されない状況。レプリカの絵の方は、ゆっくり見られるが。

これから見に行く人には、是非とも右から斜めに見たときと正面から見たときの違いを楽しんでいただきたい。ここに今回の展示のコンセプトが隠れている。ダヴィンチが持つ科学者としての側面が、如何に芸術家としての彼に反映しているかを単著に表している一つなのである。

「受胎告知」自体も素晴らしかったが、この展示を多く占めるのは、遺された手稿に基づく科学者、デザイナ、エンジニアとしてのダヴィンチを取り上げた考証がほとんどであり、本物の絵は「受胎告知」だけである。なぜ、博物館で展示なのか不思議だったのだが、納得がいく展示内容である。科学的な側面からの探求が、どのように絵画に反映されていき、受胎告知のような絵が生まれていくことを示唆している。自分がこれまで持っていたダヴィンチ像がとても変わった様に思える。どれほどの研究の上に、素晴らしい作品が成り立つのか。彼の執念を感じさせる手稿の前に、頭が垂れる。この展示、エンジニアサイドが分かるデザイナには特にもお勧めの展示だ。

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