12 月
31
MEGASTARよりキレイな星空を見たことがあるか
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先日、念願だった未来館のプラネタリウム「暗やみの色」を観てくる。普通のプラネタリウムだったら、「念願」とは付かないのだが、MEGASTAR-II x レイ・ハラカミ x 原田郁子 x 谷川俊太郎と来たら、それは「念願」が付いてしまう。
鑑賞するには、整理券が必要なのだが、開館の時点でほとんど無くなってしまうので、開館前から並ぶことに。初回の定員に何とか潜り込めた形だった。後もうちょっと遅かったら、次の回に回されていたかも。
MEGASTARはその誕生のストーリーからも気になっていた装置。確かに、その光は美しかった。だが、個人的には、地元で見た天の川の方がキレイだったなと思った。つまり、そんなに感動するほどのモノではない。再現された星空だと考えれば、それは感嘆に値するのだが。
東京というところで育った人は、下手すると、生で天の川を見たことがないらしい。林間学校だとか、旅行先で見たことはある人はいるかもしれないが。帰りの途につく親子連れが、やけに感動していたのが不思議だったのだが、そうか、そう言うことだったのかと上の知人の話を思い浮かべながら思った。確かに、MEGASTARは光を僕らに送り込んでくれたが、あの夜空の下で宇宙との一体感を感じる空気は送り組んでくれなかった。
自分はいつも思っていることがある。そういった空気を感じたことがあるか、その経験があるかどうか、それはきっとどこかで何かの差を生むのではないかと。
このプラネタリウム作品の良さは、MEGASTARの繊細な星の光だけではなく、その光の世界をナビゲートしてくれるPICSの映像と音楽、そして語りにある。これまでに見たプラネタリウム作品の中では、一番!(と言っても、プラネタリムを見たことがあるのは、盛岡のこども科学館と多摩のベネッセだけだが)心地良い音楽と、満天の星空の下、徹夜明けの自分は一瞬意識を失いかけていた…。
ダークマターですよ、はい。
このプラネタリウムに比べて、企画展はひどかった。
来年の夏は、キャンプだな。山に行け。海に行け。
12 月
30
タイミング
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一昨日の夜に発熱し、ダウン。恐らく、長い間の疲れを年明け前に出し切ろうという体の自浄作用なのか。昔までは熱を出すということにネガティブだったのだが、最近はさほどでもない。体は軽くなったような気はする。
3回目を迎えたスノーメールは無事に終了。今回は、地味に初挑戦なこともあったが、地味に収穫あり。
あとは、年賀状とグリーティング作品か…。また、三が日を過ぎてからの発送になりそうだ。
仕事始めは10日より。それまでは、行方知れずに。
12 月
22
休日前だが
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AM6:00。今から帰宅。ちょっと、来週が恐い。
12 月
21
冷徹
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きちんと寝られない日が続く。今週は地味にハードだ。
突然、吐き気に襲われて、まさかノロ…と思い焦ってしまった。恐いものです。
仕事をどうまとめて仕上げるか。そんな話をフラフラとする。結局のところ、アウトプット勝負であり、それが良くなければ、何を言っても無駄であるということ。成果がすべてである。それに尽きるのだなと思う。とても、当たり前ですが。
完成したものを誰かに説明するときに、一番イヤなことは言い訳をしながら説明することだ。自信もって、その作品の魅力を伝えるときほど、幸せなことはない。その逆は、耐え難き苦痛だ。その苦痛に慣れてしまったら、いけない。
自分の立場は、いろんな人たちの成果物を受け取り、それに自分の成果物を交えて、自分たちの成果物として世に出すところにいる。そう考えると、自分に厳しくは当然であるが、自分のところに集まるものをどう判断していくか、これはいろいろと精神的に厳しいところであるが、そこに妥協は許されないのかもしれない。とても、自己的なことを言えば、そこで自分が変に妥協すれば、その妥協が成果物に現れ、自分がまとめた成果物に現れる。そして、それが自分の評価につながり、あの耐え難い苦痛を味わう時間がやってくる。それならば、妥協を許さない難しさの方が、よっぽど耐えられる苦痛だ。そのことを苦痛だと言うこと自体が、おかしい話である、そう言うことだと思うのだ。
もっと自分は、もの作りに対して冷徹でなければならない。そう思う次第で。
失うことよりも、その先に得られる大きなものに目を向けなければならない、ということだろうか。自分が人のことを心配するよりも、その先のことを心配しろなのである。
12 月
19
はつゆめ
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ビル・ヴィオラの個展「はつゆめ」を見に行く。久々なのか、それとも初めてなのか、見られるビデオインスタレーションを堪能できた。あまり、ビデオインスタレーションは得意のではないのだが、この展示は素晴らしい。大画面と徹底したスローモーション映像。普段は捉えることのできない瞬間を認識すると言うことは、その視覚の狭間にある精神的な意味を再発掘させるものなのかと感心させられる。最後の展示スペースで見ることができる天使の姿は、恐さを持った美しさ。
映像に関わる人には、一度見て欲しいと思う展示だった。
それにしても、めっきり東京は寒くなった。と言っても、11月の盛岡ぐらいの寒さなのだが。
12 月
16
あっという間
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知らない内に、土曜日になっていた。
週の後半は、エコプロ展に行って、そのあとSQLの新技を習得。そんな感じ。
冬休みの工作キットをエコプロ展にて購入。年賀状を書いたら遊んでみることに。
今週も、Flash Lite2のお勉強。クスール本を事務所に置いてきてしまったが、いろいろと試せる機能満載。うーむ、クリスマスプレゼント的なおもちゃを作れればいいのだけども。
12 月
12
実は
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こまめに仕事をしているふりをして、重たい事項に当たっている。この企画書が通れば、4月まで制作作業一色の日々になりそうだ。
徹夜覚悟だったが、風邪気味だったので大事を取って就寝。明日は、早く起きるべし。
ケータイ+Flashの作品(製品と書いた方が良いか)も、アップデートリリースできそうだ。といっても、ディレクタ的なドキュメント書きと並行なので、作業の進捗はターボにはならない。手を増やしたい限り。
焦らずが大事である。最近、また「大したこと無かった…」とつぶやく日々であります。問題は、己の作品がどうであるかである。
12 月
11
ケッケッ
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ちょこっと一時停止したら、こんなコマで止まってしまった。思わず、一枚。いつも以上に、カメラ熱を出している怪しげな林家ぺーではあるが、持っているカメラは、よく見るとPanasonic LUMIX L1。なかなか、渋い「チョイス」です。チョイスしてみましたって、さらりと言ってみたい。言える人って、キザですよなと思ってしまう。
「チョイス」も流行言葉のような気がするのだが、最近、「逆に」という接続語が流行っているような気がする。何にも反対の意味をその後言わないのに、「逆に」って付けることがあるような。ということで、極力、「逆に」を多用しないキャンペーンを実施中。反意ではないことの前に、「逆に」と言うのは、その先の話の展開を読めていないからかもしれないと思うからだ。一手先を読む。しかしながら、日本語は常に変化するモノであり、その変化を肯定しなければならないとのこと。そうなのかもしれない。
「父親たちの星条旗」を観に行った。強く、この映画を見ることを勧める。戦争とは、なんと茶番劇であり、そこに倒れる多くの兵士、いや、ごく一般の市民たちがどれほどの犠牲になるのかを知ることができる。イラク戦争、湾岸戦争は、どうなんですか?と思ってしまった。911も、結局いろいろときな臭い話があると言われているわけで。
しかしながら、アメリカという国は、本当に自由な国なのかもしれないと思った。このような映画をハリウッドのメジャー映画として、戦時中につくれるのだから。その懐の深さと表現したらいいのか、国大きさと言ったらいいのか、これは褒めるべきところかもしれない。
この映画、今週末までらしいので、お時間がある人は、ぜひ。ただ、お食事は気を付けた方が良いと思います。プライベートライアン並み。
土曜日だったか、Flash Lite 2をいじりながら(おもちゃを作ろうかと、悪い癖が)、Foo FighterのUKでのライブ映像を見る。Foo Fighterって、今まではあまり惹かれていなかったのだが、そのライブの男っぷりにうっとり。ああいう骨太なバンドって良い。
12 月
10
何で、盛岡で作品をつくらないんですか?
ボクは盛岡で作品をつくろうと思っているんです。
そんな会話が、この間の宴で交わされた。自分は、その会話をちょっと離れていたところで眺めつつ、自分は、どうなのだろうかと、そのやりとりを見守りながら、自問自答していた。
むやみに、I Love Morioka.では無い。それが端的な答えではある。誰かが、正直言って、今の盛岡には魅力がない、と言った。花巻や水沢とかは、別ですけどと。実は、東京に出てきた人間のジレンマが、そこにあるのかもしれない。盛岡のことが好きだけど、実は、東京から見ると、他の街とそんなに変わらなくなってきている。好きな理由は、「生まれ育った街」であるということぐらいになってきている。最近の盛岡の動向を見ながら、思うところなのかもしれない。他の街とさほど変わらないじゃないか。実は、そう思えてならない。
どんなジャンルの作品も、盛岡でもつくれるし、東京でもつくれるし、どんな街でもつくれる。どこか地方ロケしましたと言っても、それを撮れる地方はどこでもあるのかもしれない。だから、なぜ、その土地でやるのか、強く必然性を求める。盛岡だからできることは、何なのか。それを自分たちは強く求めなければならないのだと思う。
自分は、東京に出てきて2年強。既に、経済のつながりでは、ほとんど盛岡から離れている。だから、ビジネスの面で強く盛岡にこだわらなくても良い。でも、あえて盛岡にこだわるのならば、それなりの必要性が求められる。ただ好きだから…、それでは、説得力がない。盛岡に住んでいる人が盛岡にこだわるのは当然である。なぜならば、住む街だから。だけども、自分たちは違う。既に、立ち位置が違うのだ。これを素直に認めなければ無ければならない。
自分が主に関わる情報デザイン、インタラクションデザインという分野は、今のところ東京を中心に動いている。しかしながら、都市における情報デザインと地方における情報デザインは、性格が違う、と自分は考えている。東京のような大都市に求められるデザインと地方に求められるデザインでは、使われる現場が違うのだから、当然在り方が違うのだと思う。時には、東京におけるデザインを求めつつも、ある時は地方におけるデザインとは何かと切り口を分けながら考える必要がある。
東京でできることを盛岡に持って行ってもしょうがないのだ。実は、昨年、盛岡のプロジェクトに関わって思ったことが、そのことかもしれない。
盛岡らしさって、何ですか。とことん、それにこだわることも、必要なのだと思う。上っ面のかわいさ、美しさを求めるのもいいが、もっと根っこの部分を考えるべきなのだと思う。今日は、何度も使う言葉になるが、正直言って、僕らは、とにかく新しい何か潮流をつくりだせる世代なのだ。だからこそ、足下をしかと見て、考えなければならない。
ニュートン曰く「私が他の人より遠くを見ることができたとすれば、それは巨人の肩に乗ったからだ」。
来年から、実は盛岡でとあるプロジェクトを立ち上げる(実際には、立ち上がっているプロジェクトに合流する)。ただ、東京から、何かを持って行こうとは思っていない。盛岡だからできる希に見る情報デザインを、そこで自分は実現しようと思っている。なぜならば、そこで世界に誇れるモノをつくり出せる自信があるから。
いつも問うっていることがある。それは、自分が世界でどれぐらいのポジションにいるかだ。自分が世界屈指にどれぐらい近づいているか。それは、東京だろうが、盛岡だろうが、どこでも関係ない。自分が世界の一点であるかどうかである。
なんだか、そのことを再確認した。これを自分なりの宴の答えとしたい。
12 月
9
まちづくりは連続性の中
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しばらくの間、電車移動が爆睡タイムになっていたのだが、最近読書を再び。東京の空間人類学を読み終える。
今の東京から読み取れる江戸からのまちづくりの遺伝子、背景。この本を読んでから、東京の街の見方が変わったと言ってもいい。「まちづくり」という言葉がもてはやされて久しいが、明治、大正におけるまちづくりの考え方も注目に値すべきところが多いし、もっとも知るべきことは江戸のまちづくりについてかもしれない。そこに、多くのヒントがあるように思えてならない。同時に、今自分たちが住んでいる街は、そう言った連綿と続く営みの延長にあり、それらを断絶したところには、何も残らないと言うことである。